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滝ともはるの横浜歴史散歩 

横浜の歴史は?

横浜は室町時代の1442年(嘉吉2年)の文献に『横浜村』として描かれていたのが初出といわれています。横浜という名前も「横」に長くのびた「浜」から『横浜』という名前が付いたと言われています。

ペリーが来た頃の横浜は百人前後の半農半漁の貧しい人が住んでいたといわれています。新しい街つくりが始まり、強制退去された村人たちが移り住んだのが元町、それから日本の歴史でも珍しい大きな変化が横浜に起こりました。そんな歴史の痕跡を歩いて調べると驚くほどの出来事が見えてきました。

最新の歴史散歩

■再び元町へ編

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元町の歴史は横浜の歴史です。ペリー来航で井伊直弼が横浜村に外国人居留地を作ることを決めました。横浜村の住民は全員移住を命じられ、ここ元町に引っ越してきたのです。ところが外国人が山手の丘に住居を定めると、元町が通勤道、ここで外国人の生活用品を作り、販売する街が出来上がったのです。

■横浜の花見編

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やっと桜が咲きました。横浜のおすすめ花見スポットを二つご紹介します。まずは日常の中に急に表れた桜の群れ!みなとみらいの日本丸の横の通りは「さくら通り」としてたくさんの美しいソメイヨシノが咲いています。日本さくら100選のなかに唯一横浜市から選ばれているのが鶴見の三ッ池公園。落ち着いた公園に植えられた素晴らしい桜を堪能してください。

■江の島 後編

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​江の島の本丸といわれる地域を紹介するのがこの後編です。まずはおしゃれなコーキング苑、美しい植物園、そして本格的な伝統ある岩屋道の商店街。仲見世通りとは一味違う落ち着いた雰囲気です。博士が説明するのは江の島の守護神の龍と天女の恋。そして江の島の原点、岩屋洞窟に入っていきます。ろうそくに照らされた洞窟の中には何があるのかを見てのお楽しみ。

■江の島 前編

江の島は海外からの人を含め観光地としての賑わいを見せています。しかし江戸時代以前は信仰の島として一般人の立ち入りは制限され、修行の僧たちが厳しい修行をする場として知られていました。江の島発展に寄与した杉山検校や明治以降大衆化の波にのまれながらも生き延びてきた名物旅館など、知らない歴史が詰まっていました。

■江の島道

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今江の島に行く方は小田急線や江ノ電で行かれる方が甥と思いますが、江戸時代は参拝道として江ノ島道がありました。そこにはかつて杉山検校が48基の道標をつくり、そばには多くの庚申塔がありました。また龍口寺には日蓮が奇跡を起こした処刑場と幽閉されていた石の牢屋がありました。

■藤沢宿・後編

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f藤沢の旧東海道沿いにはレトロな建築や風景画残っています。ここに徳川家康が藤沢御殿を作ったことが町の発展のスタートです。各街道がここを通っていたので流通の要衝として問屋の蔵が建ち並び、さらに遊行寺の門前町としても栄えました。鎌倉の近くだけ会って頼朝に追われて自害した義経を祀った白旗神社も印象的です

■藤沢宿 前編

今は湘南を代表する街になった藤沢ですが、江戸時代はここに宿場が設けられ、各街道に分かれる分岐点として蔵が建ち並びました。将軍の宿舎「藤沢御殿」がt作られ時宗の総本山「遊行寺」の門前町としても栄えました。遊行寺で見つけたお墓、実は国定忠治の子分板割浅太郎という「赤城の子守歌」のモデルになった男のお墓でした。

■東海道を歩こう 戸塚宿から藤沢宿へ 後編

​戸塚の原宿を出ると高級レストラン崎陽軒がありました。人間の影を食べる大蛇おはんの伝説が残る「影取」「鉄砲宿」の悲しい昔話。そして先日の箱根駅伝でも選手たちが走った藤沢の旧東海道を遊行寺に向かいます。歌舞伎で有名な小栗判官の事件は藤沢で起こっていたんですね小栗判官と照手姫のお墓がここにありました。

■東海道を歩こう 戸塚宿から藤沢宿へ 前編

東海道を歩こう!健康のためには散歩が一番、ということで「東海道を歩こう」シリーズ、今回は戸塚宿から藤沢宿まで歩きます。「おかる勘平」と言われてもピンとこない人が多いとは思いますが、歌舞伎の忠臣蔵の出し物の名場面はここから生まれました。そして懐かしい横浜ドリームランド、実はここにあったんですね。

■パーマンがいた 武蔵小杉後編

武蔵小杉の町は江戸時代将軍の別邸「小杉御殿」があり、その付近を中心に街が栄えていきました。また丸子橋のほとりに最近まで渡しがあり、花街がありました。そして等々力緑地にある川崎フロンターレの球技場にパーマンがいるわけは・・

■タワマン林立 武蔵小杉前編

​今や人気ナンバーワンの武蔵小杉ですが、ちょっと前までは工場が立ち並ぶ労働者のまちでした。そしてその前は中原街道に将軍の御殿「小杉御殿」があり、大変にぎわった宿場町でした。

■慶応の街・日吉
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​東急東横線の日吉駅ができたころは畑に囲まれたのどかな田園風景が広がっていました。宅地開発のために慶応大学を誘致したところから日吉の発展が始まり、今やあこがれの高級住宅地に変化しました。

■浦賀ペリー上陸の地(久里浜)
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1853年ペリーは突然浦賀沖に現れてアメリカ大統領の親書を幕府に渡す交渉を始めました。4隻の黒船が鎖国日本を大きく変えたのです。そして現在の浦和はのどかな歴史の街になっていました。横須賀のすぐ先にある浦賀にはのどかな「浦賀の渡し」があり、久里浜には巨大なペリー上陸記念碑がありました。

■元町から山手へ編

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​元町はペリーが来て横浜を開港した時に追い出された横浜村の住人が移住した町です。本当の浜っ子はこの人たちだけかもしれませんね。外国人墓地にはワシントンに桜を植えたシドモアさんも眠っていました。

■神奈川宿再び編

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​ペリーが開港の場所として目を付けたのが神奈川湊。今の青木橋から東神奈川のあたりの東海道の神奈川宿があったところです。幕府は神奈川の開港の約束をしましたが、横浜村も神奈川と言い張ったところから横浜の発展が始まりました。

■神奈川宿青木町編

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神奈川宿には幕末外国人が領事館などを設けたところから俄然歴史のスポットライトがあたりました。医者で宣教師のヘボンさんがお寺に住み込んで無料の病院を作りました。彼の作ったヘボン塾には明治時代に大活躍をする人たちが多く学びました。

■神奈川宿の旅館街台町編

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​坂本龍馬の奥様「おりょう」さんが、竜馬が暗殺された後、勝海舟の紹介で働いていた料亭「田中屋」があります。ここ台町は遠くに富士山を眺める景勝地として有名で、江戸に入る前の宿場として人気があったそうです。

■金沢八景編

入り組んだ湾が美しい風景を作りました。歌川広重の作品で有名になった「金沢八景」を求めて旅人滝ともはるが旅をします。明治の政治家伊藤博文の別荘や、終戦直前に作られた戦闘機の避難壕など見所たっぷりの金沢八景です。

■金沢文庫編

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金沢文庫は金沢北条家の図書館だった。そして今の金沢区役所がある泥亀地区はかつては入り江で、江戸時代に埋め立てられたものでした。平安時代に作った極楽浄土を地上に再現した稱名寺の庭園は時を忘れる美しさに、呼吸をするのを思わず忘れてしまいます。

■横須賀旧海軍・追浜編

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横須賀市の追浜地区はかつて海軍航空隊があった日本海軍の重要な軍事基地でした。そして広大な海軍技術廠と言われる研究所兼工場がありゼロ戦などはここで作られました。そして悲劇の予科練もここが発祥地でした。

■横須賀軍港巡り編

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基地の町横須賀は軍事秘密だらけで暗い街、というイメージが吹っ飛びました。アメリカ海軍と海上自衛隊の基地を船で巡るツアーがあり、米原子力空母のロナルドレーガンが目の前に出現、さらに潜水艦やイージス艦も出現しました。

■横須賀どぶ板通りと戦艦三笠

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横須賀の街を歩くとまず電柱がないことに驚きます、旧海軍からの遊郭や米軍下士官兵のクラブが戦後ジャズ発祥の地としてフランク・シナトラも慰問に訪れたそうです。さらに三笠公園にある戦艦三笠が素晴らしい状態で保存されているのに驚きました。

■東京湾唯一の自然島「猿島」
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横須賀には東京湾唯一の自然島、そして無人島の猿島という島があります。東京湾が一番狭くなった地域ということで、首都の国防の第1線としてここに秘密基地が作られました。外からは見えない砲台と地下に伸びた地下壕が終戦後の70年で真逆の癒しの空間として今や若者に大人気。

アーカイブ

​■馬車道前編

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横浜に外国人居留地が作られると外国人たちは移動の手段として馬車を使用し始めました。そのために美しい街路樹がある馬車が交差できる広さのある道路が必要になりました。そしてその道は馬車道通りと呼ばれました。海外そして日本の情報はすべてこの馬車道を通して伝わるようになりました。

■馬車道後編
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馬車道通りには西洋風の立派な建築物が建ち並びました。その代表的な建物が横浜正金銀行、その後東京銀行になり外国との取引が中心の銀行になりました。横浜の開国はここ馬車道通りを文明開化の中心地に変えてしまいました。写真館ができ、絹やお茶の貿易の中心地になり、港には外国の大型船が何隻も停泊しました。

■北仲通北地区編

​横浜港が貿易の中心地だったころ、桜木町にはもう一つ貨物専用の駅がありました。その駅から赤レンガ倉庫に向かって線路が引かれていましたが、その線路道が今は汽車道(遊歩道)になっています。そこから馬車道駅に向かってのエリアが北仲通地区です。ここにはかつて海軍の前身「鎮守府」があり、横浜の街を設計したブラントンさんが作った灯台寮という組織がありました。

馬車道駅から赤レンガ倉庫に向かう途中に万国橋という歴史的な橋があります。横浜の発展とともに大型船が入るようになり、手狭になった横浜港に新しく新港埠頭が建設されました。そこには列車が通り氷川丸が停泊していました。外国船が到着するときには東京から直行列車が臨時に通り、華やかな国際港としてにぎわいました。観光名所赤レンガ倉庫やハンマーヘッドの歴史もたっぷり紹介します。

​■関内駅周辺 前編

関内駅周辺は明治以降横浜に最初に町ができたエリアです。横浜スタジアムや旧市役所の周辺には夜の街が広がり、横浜に流れついた滝ともはるが、新しいスタートを切るきっかけとなった場所です。今回は滝ともはるのノスタルジーを込めた関内思い出巡りです。

■関内駅周辺 後編

関内の反対側は関外といわれた新規開発地です。いまはみなとみらいに続く第二の都市開発として市役所の後にはホテルが、そして大規模なイベントスペースが建設中です。今横浜スタジアムがある横浜公園はかつては巨大遊郭がありました。その遊郭が火事で燃えた後に本格的な近代都市横浜が作られて行きます。

■大岡川の花見 前編 (2023年春)

江戸時代、横に長い浜だった横浜村の内側は海(湾)でした。そこを埋め立てて今の伊勢佐木町や関内ができました。この湾に流れ込む川が大岡川だったのですが、埋めてた時にその海岸線が川になり、元町方面に行く中村川と野毛の方に流れる大岡川に分かれました。今はその大岡川の両岸にびっしりと桜が植えられ、春には川から桜を見ようと舟が出され、浅草の隅田川のような横浜の風物詩になっています。

■大岡川の花見 後編 (2023年春)

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大岡川の花見は蒔田公園から弘明寺と進みます。この辺りが大岡川の桜の中でも最も美しいとされるエリアです。ここは埋め立て地ではなく江戸時代も川だったところ。鎌倉時代からのお寺も建ち並びます。弘明寺の身代わり地蔵は庶民の憩いの場所、おいしい桜もちも食べました。

■川崎大師 前編(京急川崎大師線)
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川崎大師に参拝するための電車として京急電鉄が川崎大師線を作ったのが東日本最初の電車だった。今回はその川崎大師線にスポットを当てました。京浜工業地帯の歴史の中心地だったこのエリアには日本最初のレコード会社や美空ひばりのヒット曲の秘話などの秘話がたっぷり、さらに戦争の影響でどんどん駅の名前が返られていった理由など隠された大師線の秘密が明らかになります。

■川崎大師後編(京急川崎大師線)

川崎大師以前の初詣は近所の神社などにお参りするのが当たり前、しかしこの大師線ができて以来、近所の神社ではなく大規模な有名な神社やお寺などに人が集まるようになりました。また関東の初詣の名所川崎大師には横綱北の湖の記念碑など異色の建造物も多く、仲見世には老舗の蕎麦屋や名物のだるまやなどが建ち並び正月にはたくさんの参拝客が押し寄せます。

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